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博多まちづくりプロジェクト まちづくりは、一つの駅から始まった。

福岡に住んでいる人で、博多駅に来たことがない人はいない———— そう言っても過言ではないくらい、博多駅は福岡県民と密接につながっている。1日の利用者は実に約35万人。名実ともに九州最大の駅だ。福岡空港と地下鉄一本でつながっているため、福岡、そして九州の玄関口とも呼ばれ、近年は日本人のみならず、海外からも多くの観光客が訪れている。5分間、駅の構内で人間ウォッチングをしてみれば、実に多様な人々が行き交っていることがよく分かるだろう。そんな博多駅の歴史において、2011年は、忘れられない年となった。それ以前と以降では、博多駅そのものの様相は大きく異なる。駅は、その可能性を広げ、周辺地域を巻き込み、「まち」の様相を呈す。2011年に何が起こったのか。なぜ「まち」は生まれたのか。その舞台裏に迫る。

困難を極めた博多駅史上最大の再開発。

その日、博多駅は劇的な“生まれ変わり”を果たした。2011年3月、新駅ビル「JR博多シティ」が開業。地下3階、地上10階、延べ床面積20万㎡に、駅と約230の百貨店や専門店が集まる複合商業施設、エンターテインメント機能を持つシネコンなどが集まった日本最大規模の駅ビルの誕生である。博多駅は明治22年の開業から、建て替え、移転を経て、昭和38年に現在の場所になった。当時は山陽新幹線、地下鉄の開業を迎える以前だったこともあり、1日の利用者は現在の1/5に相当する約7万人だった。それから、およそ半世紀が経った今、利用者は約5倍の35万人に。年々増え続けた利用者と比例するように、動線の強化、駅前の交通渋滞の解消を求める声も増えた。「この駅をどうするか。この問題は国鉄がJRへと民営化した時からの重大な懸案でした。」そう語るのが当時、事業開発本部開発部担当部長として新博多駅ビルプロジェクトの陣頭指揮をとった今林泰だ。新博多駅ビルの工事が始まったのは2006年。今林はその2年前から水面下で準備を進めていた。

なぜ、博多駅の再開発はすぐに実施されなかったのか。その理由は、博多駅がもつ特徴ゆえの工事の難しさにあった。博多駅に休日はなく、文字通り走り続けるが如く、列車が絶え間なく往来する。一瞬たりとも列車、そして人の動きを止められない。さらに空港が近いというメリットと引き換えに、一定の高さまでしか建てられないという航空制限があった。では、なぜ新博多駅ビルプロジェクトが動き出したのか。「九州新幹線の全線開通が2011年3月に決定したんです。このタイミングを逃したら、博多駅の開発は進められなかったでしょう。」と今林は振り返る。こうして着任してすぐに開発を進めるにあたっての仕組みづくりに取り組んだ。「日々、緊張感がありましたね。絶対に守らなければならない締め切りがある以上、1日足りとも無駄にはできない。」それほどの意気込みで臨んでも、工事が始まる2006年までに克服しなければならない課題は山積したままだった。いかにこのプロジェクトが困難をきわめるものであったかがよくわかる。

今林 泰 現職:大分開発プロジェクト 担当部長博多駅開業当時:博多駅開発本部建設開発部(建築)担当部長

実際に工事を進める中でも困難の連続だった。航空制限のため駅ビルは高さ60mに抑えられる。在来線の上下の空間を活用し、開発規模を確保しなければならない。そして商業施設のほか、シネコン、ホールが入るため、列車による振動・騒音を軽減する構造を採用しなければならなかった。「これらの難工事を1日1000本もの列車の運行を止めることなく成し遂げるために、多くの人の力を集結する必要がありました。」と今林は言葉に力を込める。在来線上下空間の工事において、作業ができるのは終電から始発までのわずか4時間。さらにその時間には準備や片付けまで含まれるため、実質的な時間はわずか2、3時間ほどだったという。工事には日本初となる「フローティングスラブ工法」など、さまざまな工法が駆使された。150本の仮杭を1日1本のペースで打ち込み、そこに工事桁を載せ、線路を支えつつ、線路の下部の盛土を掘り、線路下の空間から上に向かって駅ビルの躯体を構築。支える体制が整ってからは、実は列車が走る真下で人知れず作業が遂行されていた。また、駅ビル敷地の奥行きが約30mと狭かったため、3階以上を東西に10mずつ張り出す「キャンチレバー構造」を取り入れることで、耐震性を確保しながら、売り場の奥行きを広げた。今林は「博多駅は当社のフラッグシップステーションでありシンボル。“本物”をつくることが会社や社会からの期待に応えることになると考えて取り組みました。」と晴れやかな表情でそう語った。

天神と共存できる?博多をつくる。

完成に向けて着々と工事が進む中、もう一つ、重要な業務が動いていた。10万㎡という当時、日本最大規模の売り場面積となる駅ビルに、“何”を入れるかを検証・決定するリーシングだ。指揮をとっていたのが、今林と同じ事業開発本部博多駅開発部で、企画開発担当に抜擢された三好大輔。百貨店、シネコン、ホール、そして幅広い専門店・・・それら膨大な候補の中から、これからの博多駅に必要なコンテンツを選び、誘致する。「これまでの博多駅と、新しい博多駅では、担う機能が大きく異なります。なんと言っても、新しい駅ビルのリニューアルには都市開発という要素が盛り込まれていましたからね。当時、福岡における商業の中心は天神でした。そんな天神と肩を並べるような“新しい博多”をつくらなければならない。そのための起爆剤になるようなスケール感、強烈なインパクトが求められていたんです。」そう振り返る三好の言葉のトーンから、責任の重さが伝わる。

今三好 大輔 現職:株式会社JR大分シティ 取締役営業部長博多駅開業当時:(出向)博多ターミナルビル株式会社

天神にあって、博多にないものは何か。それぞれが交通の要所としての機能を持ち合わせ、近隣に数多くのオフィスがあり、ビジネスパーソンたちの姿もある。結果、ショッピングやエンターテイメントといった要素が圧倒的に不足していたのだ。遊びに出掛ける場所は天神であり、博多ではなかった。三好はリーシングのアウトラインを作るにあたり、九州初出店の百貨店、そしてエンターテイメント要素の高いテナント、大規模なレストラン街、九州、ひいては日本にまだない専門店を誘致することを決意。もちろん、その全てに一貫する強いコンセプトがなければならない。「コンセプトを考えるのに4ヶ月ほどかかりました。博多の歴史を紐解き、博多がこれまで担ってきた玄関口としての役割を理解し、誰もが満足できる場所を創造する決意を固めました。」そんな三好たちの熱い思いが伝わり、九州初出店の「阪急百貨店」、「東急ハンズ」を迎えることに成功。最後まで調整し、何度も出店交渉を繰り返したレストラン街「シティダイニング くうてん」は、これまでビルの上部階では成功しないと言われていたセオリーを見事に打ち破る。「無理だと言われることを実現するからこそ意味がある。名物はそうやって生まれると確信していました。」三好の言葉どおり、「JR博多シティ」の開業後、「くうてん」には観光客、福岡市外の近隣客のみならず、ビジネスパーソンや住人たちも訪れ、業界を驚かせるような異例のメガヒットとなった。新しい駅ビルには人が集まり、にぎわいが生まれ、今、この瞬間も、数え切れないほどの笑顔を生み出し続けている。

駅から始まるまちづくり。

「JR博多シティ」の誕生は何をもたらしたのか。開業から4年経った今、その答えは形となって現れている。 「その大小に関わらず、駅というものは昔からまちの玄関口であり、顔なんです。」と言う小池洋輝は、これまで長崎や鹿児島の地で駅ビル「アミュプラザ」の立ち上げや運営に携わってきた。長崎駅は、JR九州として地方都市に大規模な駅ビルをつくることに着手した最初の案件であり、世の中にも事例はない。そのため、PARCOの協力を得て、そのノウハウに学んだのだと小池は言う。

小池 洋輝 現職:株式会社JR博多シティ 取締役営業部長博多駅開業当時:(出向)博多ターミナルビル株式会社営業部長

「JR九州でも、PARCOでもできないことをしよう、とプロジェクトチームの全員が燃えていました。JR長崎駅は県下随一の駅でありながら、西の終着駅であり、繁華街・浜町周辺から離れていて、周りにこれといった店もない。わざわざ人が来たくなる駅やまちをプロデュースしていかなければならない「立地創造型」の案件だったんです。その中で、肝となるアパレルショップに主軸を置き、2年かけて納得のいくリーシングを実現させました。」結果、生まれ変わった長崎駅ビル「アミュプラザ長崎」は今も年々売り上げ増を達成するほどの成功を収める。鹿児島も同様に立地創造が成果を結ぶ。そんな経験を買われ、小池は新博多駅ビルの構想に不可欠だった「まちづくり」の側面を推し進めるため、「博多まちづくり推進室」の立ち上げに加わった。

博多駅が、博多のまちの玄関口であるならば、その開発はそこからつながるまちのことを抜きにしては考えられない。「根底にあったのは『まち』を面白くしたいという考えです。『まち』が面白いから人が来る。人が来るから交流が生まれる。魅力的な『まち』をつくることができれば、駅を通じて自然と活気が生まれますよね。」だからこそ、小池は博多の「まち」を面白くするためには、第一に“顔”にあたる駅が面白くなければならないのだと続けた。博多駅に来て、最初に目に入る「駅前広場」。実は小池だけでなく、今林もまちづくりにおける鍵を握る場所だと位置付けていた。大きな屋根がもたらす開放的な雰囲気、そして広場にはケヤキの木が並び、多くの人が行き来する場所でありながら、公園で過ごすようなゆったりとした時間が流れる。イベント、祭りに利用できる広さが確保してあり、実際この場所が生まれたことにより、それまで博多駅ではできなかったライブイベントやクリスマスイルミネーションなど、駅前広場がたくさんの人で賑わう大空間に変わっていった。また、博多駅だけでなく福岡の街全体を盛り上げようと、天神で実施されていたイベント「MUSIC CITY 天神」、天神と博多、その中間にある中洲のイベント「中洲ジャズ」や福岡と隣接する糸島市の海岸で毎年開催される「サンセットライブ」の各主催者や行政までも巻き込み、9月の福岡を音楽の街にし、広域からの集客とまちづくりを視野に入れた音楽の祭典「福岡ミュージックマンス」を共同で企画。博多駅を色々な切り口でプロデュースし、駅やまちそのものに付加価値を与えている。

まちづくりはどこまでも続く。

誰よりも歩き、誰よりも人と会う。現・博多まちづくり推進室長の原槇義之は、事務所にいることのほうが珍しい。博多まちづくり推進協議会の事務局長も兼任する、JRで最も博多のまちに詳しい人物だと言える。「博多のまちを隅々まで歩き、人と会い、まちづくりにおける意見に耳を傾けている。それが私の仕事です。」JRとしてまちづくりに携わる中で、安心・安全を第一とする社風に、地域の住民たちからの信頼が厚いことがわかった。「正しくあり、クリーンであるからこそ、みなさんも力を貸してくださる。博多で何かを始めようというときにいの一番に声がかかり、頼っていただけるように、いつも意識しています。」そう語る言葉は熱を帯びている。

原慎 義之 現職:博多まちづくり推進室長>

原槇のモットーは「まちを知ることがまちづくりの原点」だ。国が変われば言語・文化が変わるように、「まち」が違えば、大切にしているものも違う。当然、まちづくりのやり方も違ってくる。歴史や文化を理解しなければ、地域を巻き込んで物事を進めることはできないのだと原槇は言う。「JR博多シティ」の開業後、近隣に魅力的なスポットが次々とオープンしている。それらを活かすために求められているのが、駅に訪れた人を回遊させる仕組みづくりだ。「まちづくりに終わりはありません。ゴールがないからこそ、どこまでも努力できるとも言えます。」原槇は“歩いて楽しめるまち”を目指し、今日も博多のまちに繰り出す。博多で培ったまちづくりの精神は、大分へ。2015年4月16日、「JRおおいたシティ」が開業した。連日多くのお客さまでにぎわい、大分のまちに新たな元気をつくり出している。地域の元気をつくるため、JR九州はこれからもまちと向き合い続けていく。※所属箇所・職名は2015年3月時点のものです。